公害・地球懇25周年記念 
「司法に国民の風を吹かせようPart25集会」
での三瓶春江さんの訴え
 
 
 
津島地区原発事故の完全賠償を求める会 
三瓶春江さん 
 
 
 
 なかよし10人家族 
やっと一緒に暮らせることになりました。
一時は6箇所に分かれて避難していました。
自宅の前のしだれ桜 
   
   
 
 

私の自宅は、福島原発事故により高線量であるため帰還困難区域になっており、自由に自宅に帰る事ができません。自分の家に帰るのに国から、許可を取らないと帰れないというのが現状です。

原発事故前は、家の周りには、山菜のフキ・タラの芽・竹の子など、秋には松茸・舞茸など取り放題という自然豊かなところでした。都会のように便利ではありませんが田舎ならではの、のんびりした人情味ある人柄で、私達にとっては、最高のふるさとです。

しかし、そのふるさとも強制的に追い出されて、49ヶ月となりました。私の家族は10人、4世代同居で高齢の両親も曾孫との生活が何よりの生き甲斐でした。春には、自宅に咲くしだれ桜を見ながら弁当を作って家族はもとより近隣の方々を呼んで花見をします。夏には、庭でバーベキューをし、深夜まで酒を飲みカラオケなどをし、子供らは花火をして大騒ぎです。冬には1メートル以上も雪が積もる時もあり、孫にせがまれ、かまくらや雪だるま・そり滑りなどをしておりました。

また、おおみそかには、台所にゴザを敷き曾祖父母から教えてもらいながら子供、孫、ひ孫らがみんなでしめ縄を作ります。一年間総まとめの家族による共同作業でした。その様子を見ながら私は年越しの準備をします。その瞬間こそが1年間家族が何事もなく過ごせた事に感謝をし、わが家族の幸せを感じる瞬間でもありました。そんな家族の平凡な生活も原発事故によって奪われました。子供や孫達の成長を見守る事こそ家族の幸せだと思っております。

 私達家族は、原発事故後は東京に避難し、二本松市、猪苗代など、その後も避難先を転々と移動の繰り返しでした。家族10人で暮らせる大きな家もなく、10人の家族は6ヶ所に分散の避難生活となってしまったのです。日々年老いていく両親を二人だけの生活にしておけず、残された余生をふるさとに帰る事が出来ない今、以前のように10人で生活することが両親にとって一番の幸せであると思い家族で相談した結果、祖父母を大切に思っている子供達も10人同居することが一番であると言ってくれた事も母親として子供達の優しさに感謝しているところです。

今年の4月にやっと持家で10人一緒に暮らせることになりましたが、原発事故前のような近隣との繋がりは一切ありません。でも、家族の絆は以前より強まったように感じております。

この49ヶ月の間には辛い別れもありました。私は実の兄を、平成23624日に亡くし、翌年の625日に母を亡くしました。私の両親は戦争で、父はシベリアに抑留され捕虜となって厳しい労働をさせられた事。母は満州で長男を産み、生まれたばかりの子供を連れ、死に物狂いで密航船に乗り、帰ってきた事など聞かされました。私達のふるさとは、開拓者が多く戦争を経験された方々が荒れた土地を耕し田畑にするため、血のにじむような努力をし、苦労の結果が現在に至っているのです。

原発事故さえなかったら、苦労をしたそのふるさと津島の自宅で平穏な生活ができたでしょう。こんな孤独な避難生活をせずに、余生を過ごせたはずです。

母も、生涯を閉じた今でもきっと、友人や親せきの方々に会いたかったでしょう。そして、お別れもしたかったでしょう。私はそんな母の無念な思いを考えると悔しくてなりません。原因を作った国や東電を許すことはできないのです。

もう数日だろうと医師から聞かされていたので、聞こえるはずもないと思いながらも危篤状態の母耳元で

「母ちゃん、何か言いたいことはないの。伝えたい事はないの。母ちゃんがいなくなったら兄貴、一人ぼっちだよ。兄貴のことが心配なんでしょ。大丈夫だよ。

私達が世話するから安心していいからね。母ちゃんの子供で幸せだったよ。」

と母に伝えると、息をしているだけの母が全力で私の肩をギュウと手で握ったのです。聞こえないだろうと思っていた母に私達、子供の感謝の気持ちが伝えられたのです。私は母を抱きしめて泣いてしまいました。母は、安心したのでしょう、苦しむ事もなく、翌朝早朝に眠るように息を引き取りました。

原発事故後、母と同じようにふるさと津島に帰れず亡くなられた方はたくさんおられます。中でも、将来に不安を感じてか、自ら命を断たれた方もおります。生まれ育った家に帰りたいと訴える事は間違っているのでしょうか。今まで大切に守ってきた先祖のお墓に自分達も入るものと疑わなかったのに、納骨も出来ないほど、原発事故の爪痕は残酷なものです。親の願いを叶えてあげたいと子供は思います。

子供にとって、子供の愛情を感じてもらい、親が幸せを感じながら旅立ってもらいたいと願っております。だからこそ私達は、癒される場所ふるさとに帰れない今、誰も知り合いもいない孤独な生活に打ち勝つには家族が一丸となり前に進むしかないと思っております。

この世に原発がある限り、将来を担う子供や孫達に安心して生活ができる場所はありません。今こそ私達大人が原発は子供や孫の命をも脅かす危険なものである事を大きな声で発信すべき時であること、ここに訴えるものです。

原発は、世界中にあり、国は福島原発事故が終息したと主張をしました。福島原発事故の被害者は5年を迎えようとしている今も、なんら変わっておりません。

私達は、ただ自分の家に帰して頂きたい。以前のように家族が幸せに暮らせる生活に戻して欲しい。近所の人達と、お茶を飲んだり、花見をしたり、山に行ってキノコを採ったりできるようにしてほしい。なぜか、原発事故被害者はお金がほしくて裁判をしているかのように取りだたされますが、私達はふるさとである津島に帰りたいだけであります。幸せはお金で買えません。家族の幸せも、子供や孫達の健康もお金では買えないのです。原発事故は世界中どこでも起こり得ることを国民全員で危機感を持ち考えていく事こそが、大切な私達の宝である、子供・孫・ひ孫が安心して暮らせる手段と考えます。

国や東京電力が責任を認めないということは、今後、もし原発事故がおきても責任は誰も取らなくて良いことになってしまいます。どうか、私達にお力をお貸しください。そして原発・公害のない住みよい日本になりますように、力を合わせてがんばりましょう。   

貴重なお時間を頂きました事、そして皆様とお会いできましたことに感謝いたします。本日はありがとうございました。ご静聴ありがとうございます。

津島地区原発事故の完全賠償を求める会

会  計  三 瓶 春 江